肥後六花

参考文献:フリー百科事典『Wikipedia』

 肥後六花(ひごろっか)は、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、

肥後朝顔(ひごあさがお)、肥後匊(ひごぎく)、肥後山茶花(ひごさざんか)の6種類の花の総称。

肥後椿(ひごつばき)

起源ははっきりせず、ユキツバキとヤブツバキの交配とも言われるが定かではない。1829年(文政12年)の「文助筆記」では既に30品種の肥後椿が鉢植え培養法とともに記されている。現存する老樹から推定すると150年から200年以上の歴史があると考えられる。明治20年代に最盛期を迎え、皆花園、名花園が発行した「椿花銘鑑」には約120品種が記載されていたが、大正期に椿栽培が衰退し、戦争で多くの品種が失われた。熊本市は1974年(昭和49年)に「市の花」に選定。

保存団体:肥後椿協会

肥後芍薬(ひごしゃくやく)

宝歴年間に薬草として蕃滋園に植えられた。肥後六花の中では最も早くに始まった

ものと言われており、蕃士中瀬助之進(白蝶)が芍薬の品種改良を進め、1778年

(安永7年)から1793年(寛政5年)にかけて書いたものをまとめた「芍薬花品評論」

を1795年(寛政7年)に著した。これによって肥後芍薬の栽培法・鑑賞法などが確立

した。品種数は、1793年(寛政5年)頃に100余り、明治末期に500余りもあったが、

その後第二次世界大戦で多くの品種が滅んだ。

保存団体はなく、栽培者10名

肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)

肥後花菖蒲の起源は、江戸の旗本に松平定朝(松平左金吾、菖翁)という者がおり

野生種から優れた栽培品種を作り出していた。熊本藩主の細川斉護がその花菖蒲を

譲って貰えないかと打診したものの、菖翁は大名からの頼みを断った。これを、藩士

の吉田可智(閏之助)が、江戸勤番の際に菖翁に弟子入りし、1833年(天保4年)に

ようやく「門外不出とする、熊本で良い花ができたら江戸に送る」という約束で

譲り受けた5品種が、肥後花菖蒲の起源である。

保存団体:熊本花菖蒲満月会

肥後朝顔(ひごあさがお)

朝顔の栽培は江戸時代後期に流行したがその後廃れ、明治時代に入って再び盛んになった。

熊本では1899年(明治32年)に凉花会が結成され、種子を門外不出として育成・保存に努めた。

第二次世界大戦や1953年(昭和28年)の水害ののち、徳永据子が守り続けていた種子から

再興した。

保存団体:肥後朝顔凉花会

肥後菊(ひごぎく)

熊本におけるキク栽培は、宝歴年間に藩主細川重賢が藩士の精神教育として奨励したことで

盛んになった。

1887年(明治20年)には「愛寿会」が結成された。愛寿会も肥後菊を門外不出としていたが

1929年(昭和4年)に会規を改め一般にも開放された。品種数は90から100品種ほど。熊本市

では、肥後菊保存会を置き、代々の熊本市長が会長として肥後菊の保存・管理にあたっている

保存団体:肥後菊保存会、愛寿会

肥後山茶花(ひごさざんか)

肥後六花の中では最後に生まれたもので、1879年(明治12年)に山崎貞嗣が代表的品種「大錦」を作出・命名したことに始まる。その後、山崎を盟主とする「晩香会」が結成され、彼らによって次々と新たな品種が生み出された。

肥後山茶花は長い間「門外不出」が守られてきたが、1967年(昭和42年)に肥後さざんか協会が結成され、一般にも開放されるようになった。

保存団体:肥後さざんか協会